主の愛にとどまる

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。(抜粋)
                    ヨハネの福音書15章9節~17節

 

ヨハネの福音書15章は、イエスがご自身をぶどうの木に、弟子たちをその枝に喩えて、彼らが豊かな実を結ぶことが述べられています。実を結ぶための条件は、イエスにしっかりと結びつき、イエスの言葉にとどまっていることなのですが、ここに至って、とどまるべきことばが、“愛”という言葉に集約されます。今日は、この箇所から“主の愛にとどまる”というテーマをいただきました。

1.愛の共同体を形成する

主イエスが私たちに命じておられることの2本の柱は、福音を宣べ伝えることと、互いに愛し合うということであります。これは車の両輪でもあり、教会は福音を宣べ伝えながら、愛の共同体を形成していく場所なのです。私たちの教会は伝道する教会ですが、その伝道力が弱まっている現状を悔い改め、伝道への情熱を新たに燃やして進もうとしています。それと同時に、私たちが心掛けておきたいことは、愛の共同体を築き上げていくことです。車は片方の車輪だけでは動きません。それを無理に動かそうとすると、車は壊れてしまいます。教会も、宣教と、愛の共同体形成の両輪がそろってこそ、豊かな実を結び、その実がいつまでも残っていくのです。

2.主はあなたを愛しておられる

主はあなたを愛しておられる。これが愛の共同体形成の出発点です。主は、あなたを愛しておられます。この箇所は、イエスが十字架に架かる前の、遺言的な説教であり、それは13章から始まっていますが、話し始める前に、イエスは弟子たちに対して、その愛をお示しになりました。上着を脱ぎ、手拭いを取り、腰に纏い、彼らの足を洗い、拭われたのです。それは、奴隷の仕事であります。神の御子であるお方が、奴隷の仕事をされた。しもべとして仕える愛で、弟子たちを愛されたのであり、さらには、十字架でいのちを捨ててくださるほどの愛をもって、弟子たちを、そして私たちを愛されたのです。この愛を、私たちは頭で知っているとか、一時的に感動したとかではなく、私たちの心に響かせたい、染み込ませたいのです。

3.互いに愛し合うことの必要性

そのために互いに愛し合うことが必要なのです。イエスが、互いに愛し合いなさいと言われたのは、それによって私たちが、イエスの愛を知るためなのです。愛されているということは、愛してみて初めて、心に染み入るようにわかるものなのです。また、互いに愛し合いなさいという言葉は、弟子たちへの、また私たちへの、イエスからのチャレンジです。“ペテロよ、おまえはヨハネの足が洗えるかい? ヨハネよ、トマスの足が洗えるかい? トマスよ、イスカリオテのユダの足が洗えるかい?”。私たちにも主の声が響きます。“おまえは隣の人の足が洗えるかい? ウマの合わないあの人の足はどうだい? 教会の中の一番小さくて弱い人の足を洗えるかい? あのみすぼらしくて、汚らしい人の足を洗うことができるかい?”。簡単ではないかもしれませんが、それをしていく時、主の愛が響き、心に染みて、愛の共同体が築かれ、教会も、私たちひとりひとりも豊かな実を結ばせていただけるのです。