キリストの臨在と共にあるいやし

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」       マタイの福音書8章14節~17節   

教会の暦では、秋の収穫を与えて下さった主に感謝する「感謝祭(Thanksgiving Day)」のあと、クリスマスの4週間前の日曜日のアドベントからクリスマスの時期です。しかし商業主義の日本では、キリスト教とは全く関係のない、悪霊払いのハロウィンで盛り上げた後、世の中はすぐにクリスマス。豪華な飾り付けや美しい讃美歌の流れる街に、イエスがおられないことを寂しく思います。中国では、妻の整形を知らずに結婚した男性が、生まれた子供の醜さにショックを受け、妻を訴え、それが認められるという悲しいニュースがありました。私たちのクリスチャン生活も、見かけだけで終わることなく、イエスのおられる生活でありますように。
今日の聖書箇所のように、イエスが来られたということは、神の国が実現したということであり、その証明として、悪霊の追放と病のいやしが伴うのです。
実際にイエスがおられると、どうなるのでしょうか。

1.どこででもいやしの御業が伴う

ペテロの家に来られたとき、しゅうとめが熱を出して苦しんでいるのを見たイエスは、手を置いていやされました。夕方になって運ばれてきた病人も全ていやし、悪霊を追放されます。そしてこれは、イザヤの預言の成就だと書かれています。
イエスは、救い主として現れたとき、文字通り苦しみを背負い、自らが私たちの代わりに苦しんで下さったのです。深い愛と大きな使命を持った救い主キリストが人々の病を背負われ、イエスのおられるところにはどこででも、いやしと霊的解放があるのです。

2.教会があるところにはいやしが伴う

第一ペテロ2章22節~25節にあるように、イエスが天に昇られ数十年が経った初代教会においても「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と語られ、イエス・キリストの教会には、罪の赦しと病のいやしが実現していました。御霊なる主の教会が存在するところには常にいやしが当たり前に起こるのです。教会の中には常に聖霊が働き、イエスの打ち傷のゆえに罪の赦しと病のいやしが存在したのです。

3.直接与えられる御言葉でいやされる

イザヤ書53章1~6節には、私たちの罪、苦しみを代わりに背負って下さる苦難のしもべとしてのイエスの姿が描かれています。私たちの抱える弱さ、霊的トラブルを全て背負って下さるのです。むち打たれ釘を刺し通されたその一つ一つの傷により私たちは罪赦されました。この預言の言葉を自分のものとして受け止めましょう。
この預言はイエスの誕生によって2000年前に実現しましたが、今、私の内側でも成就した私のための預言でもあるのです。彼の傷によって私たちはいやされたのです。
単に聖書に書かれているというだけでなく、今も生きて働き私たちに恵みの作用をもたらすものです。この恵みを受け取る者となりましょう。常にイエスが私たちのど真ん中にいて下さり、イエスの痛み苦しみによって私たちの病は癒される。これを実体験しましょう。