礼拝を守るPracticaの一年

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

「…落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。…別の種は良い地に落ち、生え出で、百倍の実を結んだ」。…イエスは言われた。「…良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、…しっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」
マタイの福音書6章33節・ルカの福音書8章4節~15節

イエスは、種を神のことばとして、種蒔きのたとえを語られました。種を蒔く人が種を蒔いた時、その種は、四つの違う土地に落ちたというのです。イエスの時代の種蒔きは、ザーッと空中に振りまくように蒔いたのです。そうすると、畑に蒔かれたはずの種が、様々な場所に落ちていきました。

1.道ばたに落ちた種

歩く人に踏みつけられ、すぐに鳥が来てついばんで食べて行ってしまいました。イエスはおっしゃいました。「思いつきだけで終わる人は、道ばたに落ちた種のようだ。注意しなさい。瞬間湯沸かし器のように、『それは、いいね。』と思いつくけれども、次の瞬間すぐ忘れてしまい、本当に信じる世界に踏み込めない。霊的な意味で、悪魔に幸せを奪われている。」神の恵みの約束である御言葉をその瞬間、瞬間に忘れていては、何も実現しません。

2.岩の上に落ちた種

土が薄く水分がなかったので、根付かず、すぐに枯れてしまいました。三日坊主で終わる人のことです。イエスは言われました。「しばらくの間は調子良くやるけれど、問題があると、やめてしまう。そこでこそ、信仰の働かせ所、勝負所なのに。」それでは、圧倒的な恵みをいただける人生にはなり得ません。

3.いばらの真ん中に落ちた種

確かに芽を出し育ちはしましたが、周りの雑草の方が早く育ち、結局押しふさがれ、からみつかれ、花や実をつけるまでいかなかったのです。家族の予定や仕事、確かにどれも大切なことです。でも果たして、神への礼拝をなくしてしまう価値があるのでしょうか。21世紀を迎え、神から豊かな祝福をいただく一番大きな障害となっているのは、忙しさです。いつの間にか忙しい現実の方が、私たちの心の中に与えられている信仰の確信よりも強くなると、信仰生活が崩れ、どこかで神の恵みの原則から離れてしまいます。最近、子供も大人も携帯のメールやゲームで一日何時間も時間を奪われています。時間をムダにしているだけの忙しさではないか、本気で考えておきたいのです。ただ形だけ信じている世俗的なクリスチャンでは、夢や祝福は実現しません。

4.良い地に落ちた種

生え出で、ぐんぐん成長し、しまいには一粒の種から百倍の実が実るほどの大収穫になりました。御言葉を聞いて守り、実践し続ける信仰の忍耐がそこにあるのです。
そもそも日曜は、クリスチャンが神に礼拝を捧げるために、血を流して獲得してきた日です。古代、人から白い目で見られ、捕らえられて拷問を受け、殺される人もいました。しかし、その中でも、礼拝を守ったのです。一番大切なことを真っ先に守ること、それが、私たちを祝福へと導きます。神を礼拝することを人生の柱としましょう。
恵みの神は、命についてどんな細かいことも配慮して下さり、必要なものは必ず豊かに与えられます。この御言葉を、シンプルに試してみましょう。