「礼拝と御言葉によるいやし」

…父親は言った。…「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」…/…その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」…しもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。
マルコの福音書9章20節~24節 /ヨハネの福音書4章46節~51節

梅雨が終わりに近づき夏本番が訪れようとしています。主によって命そのものが元気にされ、いつも喜ぶ者として歩みたいと思います。イエスが私たちに伝えてくださったのは福音です。「福音」=「良き知らせ」なのです。イエスが約束された恵みを頂いて、わたしたちも癒されたいと思います。そのためにも、私たちの方から信仰を働かせたいのです。イエスは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言ってくださっています。まず主の御元に近づく信仰を働かせたいと思います。あなたを潤す霊的な神との時間がぶれないようにしましょう。また同時に、神のお言葉である聖書を知らなければ何も始まりません。
今日は、2つの癒しの物語を開きました。マルコでは、悪霊にとりつかれた息子の癒しを求める父親と、ヨハネでは病気を患っている息子の父親が登場しています。その物語を通して、私たちも神の御前に立つ信仰を持って癒されたいと思います。

1.困った時の神頼み信仰から真の信仰者へ

困った時、神に助けを求めることは必要です。しかし、ただ単に困った時だけ祈るのではなく、神は真の神ですから私たちも真の礼拝者として、霊と真を持って神を礼拝する者に変えられたいと思います。マルコ9章の悪霊にとりつかれた息子の父親はイエスに「もし、おできになるものなら…お助けください。」と求めました。イエスは23節「…信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。父親はすぐに24節「不信仰な私を助けてください。」と悔い改め、真の信仰者へと変えられました。自分の信仰は大丈夫と思っていても、弱い私たちはイエスによって救われたにもかかわらず、主の求められる正しい信仰の基準から離れてしまうことがあります。イエスが救い主という信仰よりも、自分勝手な決め付けの信仰の方が大きくならないように注意しましょう。不確かな信仰で終わるのではなく、癒し主であるイエスが共にいてくださるという信仰を働かせたいと思います。神はご自身との交わりを求めておられます。まず主の御元に行き、真の信仰者へと変えられましょう。

2.神の語られる言葉を信じましょう

私たちが神に求め祈る時、思いをたくさん聞いて頂けるのは確かです。ですが、それと同時に私たちは神のお言葉を聞いているでしょうか。ヨハネ4章では、病気で死にそうな息子の父親がイエスに癒しを求めて近づきました。すると、イエスから50節「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」とお言葉を頂きました。そのお言葉を信じて家に帰ると本当に息子は癒されていました。私たちの都合ばかりではなく、神のお言葉を聞く耳をしっかりと持ちたいと思います。話す口だけを持って、聞く耳を持たないクリスチャンになりませんように。人間ではない神のお言葉です。私たちには信じることができる恵みが与えられています。真の礼拝者として神との霊的な交わりを持ち、お言葉を聞いてそれを信じ歩んでいきましょう。