信仰こめて献げるPracticaの一年

…少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。…いやいやながらでなく、…心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。…あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、…この奉仕のわざは、…満ちあふれるようになるからです。…                     コリント人への手紙第二9章6節~12節

農夫の種蒔きと刈り取りの出来事は人生の祝福の体験の縮図です。幸せになりたいなら、種を蒔くことです。その時忘れてはいけないのは、喜んでする心が本当の祝福をもたらすということです。昨今、ひとり分の幸せしか考えない寂しい生き方の人が増え、みんなで喜び合う本当の幸せのない世知辛い世の中になっています。耕す人に種を備え、食物を収穫させて下さる神は、蒔くべき霊的な種を与え、霊的な義の実を豊かに刈り取らせて下さいます。神は、満ちあふれるほどの恵みを私たちに与えて下さる方です。そして、私たち自身が惜しみなく与えるようになるならば、恵みの循環を生み出し、周りの人々にも祝福や笑顔を与えることができ、世の中の知恵や力では生み出すことのできない祝福の循環の中に生きることができるのです。

.信仰の表われである献げもの

マルコの福音書12章に、貧しいやもめの献金の物語があります。イエスは、神殿で人々が献金箱に金を投げ入れる様子を見ておられました。その時ひとりのみすぼらしいなりをした女性がレプタ銅貨二枚を投げ入れました。十円玉か五十円玉二枚位のわずかな金額でしたが、イエスは、「立派だ。」と感心されたのです。神への礼拝の姿勢として、生活費のすべてを感謝をもって献げたことを認めて下さったのです。十分の一献金がいつの間にかしきたりのようになり、イエスが心を動かされなかった、金持ちがあり余るものの中からお決まりのように献げた献金のようになってはいけません。神の目から見た時、献げものは金額の問題ではなく、私たちの心のあり方です。もう一度献げものの姿勢を整えましょう。

2.神の御業を引き起こす献げもの

ヨハネの福音書6章に、5千人の給食の物語があります。ひとりの少年が持っていた五つのパンと二匹の魚は、人間の計算では何の役にも立ちませんが、キリストの手にゆだねられた時、神の御業を引き出すきっかけとなったのです。男性だけで5千人、女性や子どもを入れると1万人以上だったかもしれない人々の空腹を満たした上、あり余ったのです。私たちが信仰や愛をこめて献げるものは、ただ額面どおりで終わりません。神に用いられるとき、偉大な奇跡を起こすものとして用いられることを感謝しましょう。主は、その信仰の種として蒔かれるものを求めておられます。

3.教会を建て上げる献げもの

使徒の働き2章に、教会が誕生した物語があります。教会は聖霊の力によって前進したのですが、豊かであろうと貧しかろうと皆が献げることにより、教会を支え成長させていったのです。献げることは計算や努力の問題ではなく、聖霊の働きに促される信仰の業であり、そのとき感謝なことに、キリストのからだである教会が実現していきます。献げるひとりひとりとして私たちが選ばれていることを、心から感謝したいのです。私たちが献げるのは、イエスが愛情の何分の一かではなく、命の全部を私たちのために献げて下さったからです。喜んで献げる者へと変えられていきたいのです。