いのちのパンであるキリストをいただく

…イエスは答えて言われた。「…なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。…」すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」…イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」                   ヨハネの福音書6章24節~35節

今日の聖書箇所の直前には、イエスが神の御子であることを示す記事が展開しています。イエスが五千人を超える人々の空腹を、わずか五つのパンと二匹の魚で、一瞬にして満たされた奇跡の物語です。満腹し、驚いた人々は、イエスを追いかけて来るようになります。しかしイエスは、人々が本当の意味の信仰心ではなく、薄っぺらな関心や興味を持って集まっていることを見抜いておられました。イエスは、「なぜ、わたしのもとに来るのか。『もう一回、皆が腰を抜かすようなことをやってみて。』と言うのか。」と言われ、人々に厳しく向き合われたのです。
イエスを慕い求める求め方にも、霊的な段階があります。単に、「お腹がすいたから、ご飯が食べたい。」「お金がないから、恵んでちょうだい。」「落ち込んでいるから、心を明るくさせて下さい。」確かに、急場をしのぐための恵みも、時にはイエスは与えて下さいます。でも、何か問題が起きる度に、困った時の神頼みのような上っ面の恵みの求め方を、イエスは良しとされません。私たちは、本当の救い主であるイエスを求めているのでしょうか。聖餐式にあずかるにあたり、三つのことをしっかりと心に刻み付けたいのです。

1.永遠のいのちにつながる食物をいただく

イエスが語っておられるのは、単に、食べるご飯だけではなく、霊の糧も含めて、私たちがどんなものを取り込んでいるのか、ということです。もし、私たちが、自分の霊的な食物だと思い、何でもかんでもどんどん取り込んでいると、人を憎んだり、不平不満や愚痴を言ったり、「自分の人生なんて、もうだめだ。」と絶望したり、私たちの心は必ず歪み、不幸な魂になります。
イエスは、「永遠のいのちにつながる食物がある。」とおっしゃいました。私たちは、まず、クリスチャンとして歩んでいる中で、イエスを通していただく霊的な食物、質の良いいのちを与える食物を選び取るべきなのだということをはっきりと知りたいのです。

2.救い主キリストを、霊の食物としていただく

人々は、「神の御業を行なうために、私たちは何をすべきでしょうか。」と、興味津々でした。イエスは、「神から遣わされた者、即ち、救い主である私を信じなさい。」と答えられました。そこから、本当の信仰生活が動き始めるからです。神のひとり子キリストが、人の姿を取り、目の前にいて、奇跡の御業を目の当たりにしたにも拘わらず、当時の人々にとって、イエスを信じることは難しいことでした。人々は、一番大切なことを忘れていたのです。私たちの目の前にすでに現われているキリストを選び取り、霊の食物としていただこうではありませんか。
今回のインド伝道の四夜連続の集会でも、多くの素晴らしい奇跡が起こりましたが、それだけで満足していません。なぜなら、伝えたかったのは、奇跡の感動ではなく、イエスを信じる喜びだからです。一週間経ち、この後、ニルギリでの礼拝も始まります。今、私の中で、リアルな祈りがあります。「癒され、悪霊から解放されたヒンズー教の人たちが、どうか礼拝に行きますように。」教会に行き、聖霊に満たされた生活をしてほしいのです。イエスが与えようとした本当の救いは、単なる奇跡の御業ではありません。御業を起こして下さる救い主ご自身をいただくことが必要です。

3.聖餐式で、イエスをいのちのパンとしていただく

今朝、イエスの御体が、パンとして与えられ、イエスが十字架で流された血潮が、ぶどう酒として与えられます。単に、パンを食べ、ぶどう酒を飲んでいるのではありませんし、単に、心を落ち着ける儀式をしているのでもありません。パンが、イエスの御体そのものであり、ぶどう酒が、十字架で私たち人間の罪を洗い清めるために流された血潮であることを確認して、いのちのパンであるイエスを今朝もいただこうではありませんか。
あなたも私も、弱い人間です。私たちの力には限界があり、常に悩むこともあります。しかし、私たちには、単に、ほんの数時間ほど空腹を満たす食物ではなく、永遠のいのちにつながる平安を保証し、いつまでもその喜びと躍動感で満たすことのできるいのちのパンがあることを知りましょう。それは、イエスご自身のいのちなのです。今日の聖餐式を通して、このイエスの恵みに直接あずかりましょう。