主がとりなしておられる

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。…罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。                      ローマ人への手紙8章26節、34節

日本人の祈りと言えば、神社仏閣に行き、「あれも、これも、お願いします。」と自分のことを精一杯祈り、最後に10円をチャリンと入れる、これが一般的な姿かもしれません。一方、初めて教会に来た人が、「皆さん、自分のことだけでなく、誰かのために祈っている。それどころか、初対面の私のためにも祈ってくれるなんて。」と感動し、教会に通い続け、救われたということもあるのです。
マタイの福音書5章に、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」という有名な御言葉があります。ここで、「あなたの敵」と「迫害する者」は、同じ意味で使われています。同様に、あなたの敵を「愛する」ことと、迫害する者のために「祈る」ことを、イエスは同じような意味合いで使われているのです。実は、祈ることは、大きな愛の表現なのです。
今朝も、インド伝道のために祈りましたが、単に、自分のことではなく、他の誰かのために祈ることが、とりなしの祈りです。とりなして祈ることは、クリスチャンに与えられた恵みであり、特権なのです。
しかし、私たちがとりなして祈るその前に、イエスご自身が、そして、聖霊ご自身がとりなして祈って下さっていることを、心に刻み付けたいのです。二つのことを共に学びましょう。

1.主が、とりなしておられる

今日開いた聖書に、「神の右の座に着き、イエスがとりなして下さっている。それゆえ、私たちは罪に定められず、罪赦された者として生きることができる。」とあります。罪とは、私たちと神との仕切りとなっていたものです。
イザヤ書59章には、「神の手が短いのではない。あなたの咎が仕切りとなり、神のもとに祈りが届かなかった。」とありますが、イエスがとりなして下さって人間の罪が赦され、罪が取り除かれていくのです。先立つ主のとりなしの祈りがあるからこそ、私たちの祈りは神に届くのです。
私たちが祈るよりも先に、イエスが罪ある私たちのために祈って下さっている。また私たちが誰かのために祈るよりも先に、イエスがその方のために、とりなして祈っておられるのです。神の御子イエスがこの地に降り、人の子となられたことは、まさに、私たちの身に成り代わり祈って下さっていることを現わしたものなのです。

2.主のとりなしによって、私たちの祈りは変わる

まだ実現していないことのために祈り続けていく時、確かに、忍耐が必要です。しかし、「主よ、まだでしょうか。」と精も魂も尽きて、どう祈ればよいか、わからなくなることもあるかもしれません。そんな時、とりなして下さっている聖霊の働き、イエスの祈りに気づいてください。
主の十字架を思う時、死がなければ当然復活はないわけで、ある意味、祈りにおいても一度死ぬ必要があるのかもしれません。自分の力では祈れない弱い私に成り代わり、主ご自身が祈って下さっている声を聞く体験をする時、復活の主の新しい命を受け、私たちの祈りが本物になっていく。主のとりなしの祈りによって、泉から水か溢れ出るように、私たちの祈りが引き出され、祈ることができる者へと変えられていくのです。祈りは、一方通行ではありません。先に主がとりなして下さっている祈りに応答する、それが私たちの祈りなのです。
「この祈りは、もう、かなえられない。」と、葬り去っている祈りがあるとしたら、もう一度、祈り直してみましょう。自分の力に頼るのではなく、主がとりなして下さるなら、不可能が可能に変えられていきます。あきらめず祈っていく者でありたいのです。
主の十字架を目前にし、ペテロはイエスに、「絶対に、裏切ったりしません。」と誓います。ところが、イエスは、「鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われ、続けて、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言って下さいます。数時間後、ペテロは捕まることを恐れ、「イエスなんて、知らない。」と口走り、イエスの御言葉を思い出し、男泣きに泣くのです。その後、ペテロは聖霊の恵みを受け、力強く変えられていきます。ペテロは、「あなたの信仰がなくならないように、祈りました。」というイエスの御言葉を、聖霊のとりなしにより何度も思い出させていただいたに違いありません。イエスのとりなしの声を聞く時、私たちは必ず変えられていくのです。