神との関係に生きる幸い

神よ。…私に情けをかけ、…私のそむきの罪をぬぐい去ってください。…まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。…私は…ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。…私の救いの神よ。血の罪から私を救い出して下さい。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。…たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。     詩篇51篇1節~17節

ダビデは様々なものを背負っていました。サウルからの執拗な攻撃、王としての重責、彼の罪が招いたとも言えるお家騒動。そして消えることのない罪の事実。
ダビデ王の欲望により、兵士ウリヤの妻バテ・シェバはダビデの子どもを身ごもることになりました。さらにそれを隠すためにダビデは画策し、結局間接的にウリヤの命を奪います。大きな罪に気づかないダビデに、預言者ナタンがその罪を示し、ダビデは自分の犯した罪の重荷を背負うことになります。しかしダビデは、重大な重荷を背負いながらも幸いを感じ、喜び楽しんで生きる世界に目が開かれたのです。
私たちも、ひとりひとり何かを背負って生きています。生まれた境遇、病、失敗、挫折、障害。そんな私たちが、魂の深みから喜びに満たされて過ごすために、三つのことを学んでおきたいのです。

1.神を礼拝する

私たちが、支配されているものがあるとすれば、それが偶像です。偶像との関係の中で生きるのではなく、私たちは、いつもそばにいて下さる生きて働くまことの神との本来の関係を回復させ、礼拝しなければなりません。神を礼拝するとは、自分の歩みの中で神を認め、神を信じ、神に従うように心がけることです。
この詩篇は、悔い改めの詩篇です。悔い改めるとは、どういうことでしょうか。その最初のステップが、自分が背負っている運命、置かれている環境、能力、罪、病、すべてを神に背負っていただくことです。
イエスは、群れから迷い出た一匹の羊を捜し求めて山や谷を越え、ついに見つけ出し、その羊を背負って帰る羊飼いの話をされ、ひとりの罪人が悔い改めるならば、天において大きな喜びがあると言われました。迷った羊は何をしましたか? 何もしていません。見つけられて、背負われただけです。私たちが神に見つけられ、神に背負われて歩む者とされる。それが、本来のあるべき神と私たちとの関係であり、神を礼拝するということなのです。

2.自分の罪を、神に告白する

イスラエルの人々は、毎日礼拝をして神との関係の中に生きていました。彼らは、常に供える捧げ物に加え、罪のための捧げ物をしなければなりませんでした。なぜでしょうか。神との本来の関係の土台が罪の赦しであり、罪赦されて初めて神との豊かな交わりの中に生きる者とされるからです。
しかし私たちは、自分の罪のためにいけにえを捧げる必要はありません。神の御子イエス・キリストが、たった一度十字架上で死ぬことによって私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったからです。そのキリストがもたらして下さった罪の赦しの恵みを信じるだけで、私たちの罪は赦されるという道が開かれているのです。
それを自分のものとするためには、ダビデのように、罪を自覚し、罪の告白をすることが必要です。罪のない人はいません。罪がないと言う人は、自分を欺いています。もし、私たちが自分の罪を告白するならば、神はその罪を赦して下さいます。これが神の約束です。

3.砕かれ、悔いた心を持つ

サウルから命をねらわれ、心労極まりない歩みの中で、ダビデは、サウルを打つチャンスを何度か得たのですが、彼はサウルを打ちませんでした。人間的に欠陥を抱えたサウルでしたが、神に油注がれた王だったからです。そして自分を苦しめ抜いたサウルが死んだとき、ダビデはサウルを讃える哀歌を歌います。それは、ダビデが心砕かれた人だったからです。砕かれた、悔いた心。これが、礼拝の本質なのです。
私たちは、人との関係の中でわだかまりを抱えていると、神との豊かな交わりを持てなくなります。他人が変わることではなく、自分自身が砕かれることを求め、神との関係を回復させましょう。そして、心の底から平安を得られる信仰の道を歩みましょう