引き出された者の生き方

…パロの娘が…ナイルに降りて来た。…葦の茂みにかごがあるのを見、…取って来させた。…あけると、子どもがいた。…彼女は…「…きっとヘブル人の子どもです。」と言った。そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「…乳を飲ませるため、…うばを呼んでまいりましょうか。」…その子の母を呼んで来た。パロの娘は…言った。「私に代わって乳を飲ませてください。」…その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。… 出エジプト記2章1節~10節

モーセと言えば、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民を救い出し、約束の地へと導いた偉大な指導者です。
しかし、モーセは、いきなり神の恵みを受け、偉大な指導者になったわけではありません。神が不思議な方法でモーセの命を救い出して下さったことを、私たちは聖書の中にはっきり見るのです。
当時、エジプトで、イスラエルの民は増え広がりすぎたので、パロは、「ヘブル人の生まれてきた男の子を、ナイル川に投げ込み、殺せ。」と命令を出していました。ところが、モーセの両親は3ヵ月間彼を隠していました。でも、とうとう隠し切れなくなり、瀝青と樹脂で塗り固めたパピルス製のかごに入れ、ナイルの葦の茂みの中に置いたのです。そして、モーセの姉が、遠くから見守っていました。そこへ、パロの娘が水浴びにやって来ます。そして、かごと中の男の赤ちゃんを発見し、「ヘブル人の子どもに違いない。」と気づき、自分の父親が出した命令とは言え、かわいそうに思うのです。その時、モーセの姉が、「その子に乳を飲ませる乳母を連れて参りましょうか。」と声をかけます。すると、パロの娘は、「そうしておくれ。」と頼むのです。そこに連れて来られたのが、モーセの実の母親でした。彼女は子どもを引き取り、パロの娘の子どもとして堂々と育てることができるという、神の大きな恵みを体験します。その子は大きくなり、王宮に連れて行かれ、王女の息子とされ、王女は、川から引き出し、死ぬ運命から引き出したという両方の意味を込め、モーセ(引き出す)と名づけます。  
モーセは、自分がイスラエル人だと知りつつも、王宮でエジプト人としての最高の教育を受け、成長していきます。40才の時、エジプト人が同胞のイスラエル人を打っているのを見て、エジプト人を殺してしまいます。それがパロの耳に入り、パロはモーセを捜し、殺そうとします。そこで、モーセはミデヤンの地に逃れ、40年間羊を飼う生活を送り、80才になった時、神から、「エジプトで苦しんでいるイスラエルの民を、救い出せ。」と命じられ、エジプトへ帰り、神の民を導き出す大いなる働きをなしていくのです。
私たちは、モーセ自身が死ぬ運命から救い出された者だからこそ、神はモーセにイスラエルの民を救い出す使命を与えられたということを、覚えておきましょう。
同様に、私たちも救い出された者として、家族や周りの人々を滅びや病、あらゆる思い煩いの中から救い出すために用いられるのです。私たちも、もし、信仰がなければ、滅びゆく運命にありました。しかし、信仰を与えられ生きる者とされ、今度は私たちがその恵みを誰かに伝えていく、これこそ私たちの生き方でなくてはならないのです。
神は、40年間の王宮での教育と、その後の羊を牧す訓練を通し、モーセを整え、神の民の指導者として用いていきます。「ほかの人を遣わして下さい。」と言う弱気なモーセを、神は、励まし用いていくのです。
モーセは王宮を出て行く時、「私の人生は終わった。」と思ったかもしれません。しかし、神の計画はずっと続いていて、人生も終わりに近づいた頃から神に思いきり用いられていきます。神は、私たちがいくつになっても、私たちを通し神の栄光を現わして下さるのです。
終戦記念日が近づくと、戦争体験者が、「戦争の悲惨さを伝えるため、自分は今も生かされているに違いない。」と言われる姿を目にします。「多くの人が戦死したのに、なぜ自分は助けられたのか。」生かされている意味を知るとき、しっかり生きることができます。命がある、ここに生かされているということには間違いなく意味があるのです。
神は、不思議な方法で、あなたを引き出し、今ここに置いて下さっています。信仰を与えられ、確かに神の恵みをいただくことができる喜びを、私たちはしっかり噛み締めなければなりません。
ヘブル人にとってはいやな時代であり、殺される運命の中に生まれてきたモーセでしたが、神に救い出され、偉大な指導者として用いられていきます。あなたも、こんな時代に、こんな苦しみの中に生まれてこなければよかったと、様々な思いがあるかもしれません。しかし、どんなところを通らされても、どんな悲惨な運命の中に生まれたとしても、神はあなたをそこから引き出し、整え、用いて、御業をなして下さるのです。それが神のご計画であることをしっかり覚えたいのです。