いやしを求めるための心構え

さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」…                                             ヨハネの福音書11章1節~5節

今日の聖書は、病人ラザロがイエスから特別な恵みをいただく物語です。マルタ、マリヤ、ラザロの姉弟は、エルサレムに程近いベタニヤに住んでおり、イエスと親しい関係にありました。ある時、恐らく弟であったラザロが、病気で死にかかったのです。姉のマルタとマリヤは使いをやってイエスを見つけ出し、すぐ来てほしいと願います。しかし、イエスは知らせを聞いてから二日後に出発され、着いた時には、ラザロは死んで四日経っていました。マルタもマリヤもイエスのもとに来て、「もう少し早く来て下さっていたら、弟は死ななかったでしょうに。」と涙を流します。イエスは、横穴を掘り入り口を大きな石で閉じたラザロの墓の前に立たれます。イエスは涙を流し神に祈りながら、墓の入り口をふさぐ石を取りのけさせると、「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれます。すると、ラザロが生き返って墓の中から出て来るという、とてつもない奇跡が起こるのです。
いやしを祈る上で、整えておきたい信仰者の心構えがあります。それを三つの点から学びましょう。

1.ひとつの物事でも、二つの道筋がある

ひとつ目の道筋は、マルタとマリヤが持った、愛する弟が死んでしまうのではないかという恐れと、現実の死による悲しみという人の思いによる道筋です。
しかし、二つ目の道筋がありました。ラザロの病気がイエスに伝えられると、イエスは、「この病気は死で終わるだけではない。神の偉大さや、御子イエスが救い主であることが明らかになるために用いられる出来事である。」と言われました。神のご計画の中での霊的な道筋です。
どんなにあなたを悩ませる問題があろうと、神が共におられるなら、この二つ目の道筋が可能なのです。あなたが人間的な不安を繰り返しながら想像する道筋とは別の、神の栄光が輝き出る道筋があるのです。

2.二つの道筋の成り行きに、ズレが生じる

マルタやマリヤがたどった、弱く恐れに満ちた人の道筋では、イエスは間に合わず、ラザロの死によってすべてが終わったと感じられました。   
もう一方で、イエスが神の御心の中で歩んだ道筋があります。ラザロの病気の知らせを聞いてもあえて遅く出発され、「あなたがたが信じるために、ラザロが生きている間にわたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいる。」とまで言われて、イエスは神のご計画を歩んでおられました。
私たちの考えと、神のご計画に時々ズレが生じることがあります。ここでは取り返しのつかないズレに思えました。ラザロは死んでしまったのです。しかし、二つの道筋は、同じ物事から始まって、ひとつの偉大な答えに行き着くことを知らねばなりません。

3.二つの道筋が交わる点がある

出来事は致命的なズレを生じ、ラザロは死んだのです。でも、その道筋がちゃんと交わります。イエスは、死という人間にとっての最大の問題を前に、「わたしが命であり、よみがえりである。」と言われ、自らが命の根源なる神から遣わされた救い主であることを示します。そして、死に対して絶望する以外にない人々の前で、神に、「この人々が、信じるようになるために。」と祈られ、ラザロを死から生き返らせるのです。
あなたは、クリスチャンとしての物語の展開をお持ちですか。信仰が退化し、悲劇の道筋を作り上げて終わることがありませんように。イエスが共に歩んで下されば、私たちの人生の現実では決して交わることのないように見える二つの道筋がひとつになり、祝福をいただくことができるのです。それが、聖書の語るイエスであることを忘れないで下さい。そこには、あなたの病がいやされ、神の栄光が現わされる奇跡が待っています。イエスが共におられるなら、私たちにも神のご計画が動いていることを信じましょう。