聖霊の領域に生きる信仰聖生活

…偽りを捨て、…隣人に対して真実を語りなさい。…怒っても、罪を犯してはなりません。…悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、…ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。…必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。…無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。      エペソ人への手紙4章25節~32節

使徒パウロは、形式的な信仰ではなく、普段の時間の過ごし方の中で真実のクリスチャンらしさを与えられて生きていこうと勧めています。今日の聖書で、大きく二つ対比させられているものがあります。一つ目は、真実と偽りであり、二つ目は、聖霊と悪霊です。私たちは、悪魔に機会を与えないために、神の御前に良い方を選び取りたいのです。二つのことを共に学びましょう。

1.真実の世界を選び取る

私たちクリスチャンが選び取るのは、偽りの継続でしょうか。それとも、真実の世界でしょうか。今日の聖書で偽りに属するものは、怒り、罪、盗み、悪いことば、無慈悲、憤り、叫び、そしり、悪意。これらは、私たちが別れを告げたはずの古い世界です。私たちは、行動の中に真実があり、人に分け与える施しの精神があり、正しいことを成し一生懸命働こうという思いがあり、人の徳を高めることばを語って恵みを与え、優しい人になり、互いに赦し合う者でありたいのです。十字架の血潮で洗われ、清められたはずの私たちですから、真実な清い世界を選び取りたいのです。神の御心にかなう良いものを選び取る決意が大切です。
しかし、「人間はみんな欲があって汚いものだし、きれいごとばかり言ってもだめでしょ。」そんなふうに言う方もいます。そんな時、私はこうお答えします。「私たちの世界が、悪や罪の影響から抜け出すことができない世界だからこそ、清らかなものを見失わないようにしておかないと、本当にだめになってしまいますよ。私たちを引き上げる真実なものが大切です。」
私たちはひとりひとり、イエスによって清くされ、変えられることを願って歩みましょう。私たちはイエスと出会い、霊的に高い次元で暮らすことができるようになっています。だとすれば、いつまでも悪魔にそそのかされ、罪に引っ張られる偽りの連続ではなく、神にある真実の世界を選び取っていきましょう。完璧にはなりきれない私たちであるからこそ、神にある清らかなことを願い求めていきましょう。

2.聖霊に導かれて生きる

悪魔は私たちの心に囁いてきます。「おまえなんか、愛されていない。」「あなたの病気は治らない。」そんな悪魔に翻弄されず、聖霊の働く霊的な領域に生きる生き方を選び取りたいのです。悪魔に機会を与えてはならないと聖書は語っています。人を憎み続けたり、落ち込んで絶望し続けたりすると、悪魔に付け入るスキを与えます。確かに、病気だと診断されることもあるでしょう。でも、病名におびえ続けていると、悪魔にチャンスを与えてしまいます。
クリスチャンになった時、私たちは古い罪深い世界から、キリストの救いの世界である新しい聖霊の領域へと導き入れられました。これは、後戻りできない命の原則です。生まれた以上、古い滅びた世界へ戻ることはできません。赤ちゃんが母親の胎内から出て来るまでは、子宮の中で羊水に浸かっています。肺はあっても呼吸はしていません。でも一旦、この世界に誕生すると、もう二度と水にの中で生きることはありません。自分の肺で呼吸して生きるようになります。イエスによって罪の世界から贖い出され、私たちはもはや、悪によって汚染された水を飲むべきではありません。神の聖霊を悲しませず、聖霊の働く霊的な領域に生きる生き方をはっきりと選び取りたいのです。
神の御言葉に立ち、信仰によって希望を持ち、愛に満たされて歩む者になりましょう。私たちの内に良き業を始められたお方が、主イエス・キリストの日が来るまでにそれを完成して下さると信頼し、聖霊による神の恵みをいただいて前進してまいりましょう。私たちは、イエスが共におられる霊的な次元を生きていくことができます。だから、毎日の具体的な生活においても、神が喜ばれる清らかさを心から求めて生きていこうではありませんか。