弱さを超える霊的祝福

…私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。…これを…去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。…キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、…に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。  コリント人への手紙 第二12章7節~10節

私たちは、単に、楽なことや便利なことばかりを求めているだけでは成長できません。いかに自分の弱さと直面するかで、もっと大きなチャレンジの場面で力を発揮できる本物の強さの土台を見出すことができるようになります。
弱い私たちだからこそ、キリストによって愛され、救われました。でも、いつまでも力不足で留まり続けるのではなく、本当の力強さがクリスチャンである私たちに与えられる恵みを思い起こして下さい。
今日の聖書の御言葉は、主イエス・キリストが使徒パウロに、祈りの中で語って下さった御言葉です。この御言葉を、あなたに神が直接語って下さる御言葉としていただいて下さい。そして、パウロのように、「私は弱いときにこそ、強い。」と信仰の告白を持てる私たちへと変えられてまいりましょう。信仰者として弱さを体験するとき、向き合うべき三つの段階があることを共に学びましょう。

1.弱さと向き合い、真剣に祈る

クリスチャンになったから、辛いことは起こらない。それは、嘘です。「強気な言葉だけ口にすれば、いやなことは起こらない。」それは、前向きな心の姿勢の表現としてはわかります。しかし、私たちの現実には、弱さがありますから、そこから逃げないようにしたいのです。文句や愚痴を言って逃げていては信仰を発揮することもできません。その弱さを抱えたまま、神の御前に出てみましょう。
パウロは、「自分には、肉体のとげがある。」と語っていますが、具体的に何であったかは語っていません。とげ…触れると痛みがほとばしり、血が流れる、持病だったのでしょうか。そういう弱さの現実がありました。
本物の弱さとは、「これさえなければ、私の人生はきっと幸せだったのに。」と思うもの…生まれつきのハンデ、病気、失敗…。自分の力では解決できませんから、クリスチャンである私たちには、できることはたった一つ、まず、しっかりと神に祈ることです。パウロは、三度も祈ったのです。一回一回が本当に大変な真剣な祈りだったのでしょう。何日も断食や徹夜をしながら祈ったのかもしれません。私たちは自分の足りなさを痛感していながら、案外祈らないこともあって、初歩的な部分でつまずいているかもしれませんが、パウロは徹底的に祈ったのです。でも、肉体のとげは治りませんでした。それでも、弱さと向き合うとき、信仰者としての次の展開があるのです。

2.弱さの現実の中で、神の力を体験していく

パウロは、イエスから、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたと語っています。ただ、弱さが解決されたというだけでは言い現わせない、特別な恵みがあるということです。
弱さは、神の力を体験するチャンスであって、弱さの内に主イエスの力が現わされる。このことを、心の中に刻み付けたいのです。主は、私たちの弱さを最初からご存知で、いつでも弱さを通し、私たちの人生に介入して下さいますから、感謝しましょう。

3.弱ささえ誇ることができる信仰に到達する

パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と語ります。自分の頑張りや、与えられた栄誉を感謝し誇るだけではなく、弱ささえ誇る境地にまで、クリスチャンは達することができるようになるのです。
ローマ書5章でも、パウロは、患難さえも喜んでいると述べています。なぜなら、患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出し、その希望は失望に終わることがないからです。それは自分の強さではなく、神の愛が私たちに十分に注がれているからであって、神の恵みの展開なのです。
モーセ、エリヤ、ダビデも、脚光を浴びるだけでなく、人として弱さと向き合い、弱さの中で主に導かれ、霊的な世界で祝福される秘訣を手に入れました。
神は、私たちを弱さの現実の中に捨て置かず、弱ささえ恵みの受け皿として用いて下さいます。すなわち、私たちの力を超える聖霊の働く次元が開かれるのです。
三つの段階の中で、一つ目は、人として踏ん張っているレベルです。気づいてほしいのは、その先に、霊的な祝福のレベルがあることです。その大きな恵みの次元へと踏み込んでいこうではありませんか。